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​五層の功夫

五層の功夫 (陳小旺 伝)

陳式太極拳の五層功夫

第一層、一陰九陽・剛が多く柔が少なく棍棒のよう

第二層、二陰八陽・剛柔未だ定まらず

第三層、三陰七陽・なお硬さあり

第四層、四陰六陽・達人に似(近付く)

第五層、五陰五陽・剛柔陰陽が完全に融合する

陰陽 不偏称妙手

陰陽偏ることなく達人とよばれ

妙手 一運一太極

達人が動けば太極をなし

太極 一運化鳥有

太極きわまれば無極に帰す

太極拳、五層の功夫

第一層は一陰九陽と呼ばれ硬い棍棒と同じである。太極拳の学習を始めた時は一陰九陽で陰陽は平衡しておらず、動作は棍棒と同じように硬い。上半身は重く下半身は軽く、身体の平衡(バランス)がとれず容易に体勢が崩れる。

 

第二層は二陰八陽と呼ばれ散手(まとまりのない状態)である。

第一層程に容易には体勢が崩れないが、もしこの段階の二人が戦えば誰も太極拳で勝利をすることが出来ない。その戦いには太極拳の技(わざ)は全くなくただ力のみの子供のけんかと同じである。

 

第三層は三陰七陽で動作に硬さが残る。この段階になると大圏は形成されており、動作は太極拳の規則にほぼ従っている。しかしながら動作のところどころに硬さが残り、内気の流れる量がまだ少ない。

相手の攻撃を完全に化勁することは出来ないが、硬さの残った動作で相手を投げることが出来る。

もし自転車に例えるなら、自転車に乗れるようになり、広い場所では自由に乗れるが石などの障害物があると対応できずに転倒してしまう。

この段階では外力の影響を受けて太極拳の運動規則が崩れることがあるが、第一層、第二層よりはるかに向上している。

この段階からさらに修練を重ね動作の誤差をさらに少なくし、また内気の流れが増えれば第四層に到達する。

第四層は四陰六陽で妙手(達人)に近い。

この段階になると大圏から中圏になり妙手(達人)に近い。相手の攻撃を受けた時的確に化勁して相手の動作に応じて相手を投げることが出来る。

動作は外勁より内勁が優れ、もはや第三層のような動作の硬さは見られない。

再び自転車に例えるなら、既にかなり優秀な乗り手でどのような障害物があってもほとんど乗りこなすことが出来る。

 

この段階からさらに修練を重ねるとやがて第五層に到達する。

五陰五陽で陰陽は完全に平衡している。この段階になると相手の動作のいかなる影響も受けず、太極拳マークと同じく自身の陰陽は常に完全に平衡しており、動作のいかなる誤差も無い。相手の攻撃を受けた時、防御と攻撃が自然に瞬時にして行われる。

もはや自身の身体の動きを気にとめる必要はなく、相手に触れたところが無意識のうちに自身の攻撃部位となる、すなわち全身が攻撃部位となる。

我々の太極拳の用法の基本からすると正確な姿勢と正確なタイミングが重要であり、相手の強いところを避けて弱いところを攻撃する。

もし相手と自分の技術が同等であったなら、相手が攻撃しようと踏みこんで来た時自分は攻撃を避けて後退する、この時両者とも自身の平衡を保つことに専心しておりそれ以外の余裕が無い、すなわち両者とも相手を攻撃出来ない。

しかし、もしあなたが相手より優れていれば、相手が攻撃してきた時平衡を失うことなく自身の体勢を変えることが出来る。

相手は攻撃してきた時僅かに平衡を失い体勢を少し崩す。相手が体勢を少し崩した一瞬だけ、状況を変える手段はあなたにある。あなたは相手の体勢に応じて簡単に相手を攻撃することに成功するであろう。

我々が攻撃する時も同じ原則に従う。まず先に自分自身が太極拳の運動規則を乱すような悪い影響を受けていないこと、次に相手が平衡を失った一瞬を見逃さないこと、そしてその瞬間に攻撃することである。

究極の原則は自分自身は常にその時に対応した平衡を保ち、相手の強いところを避けて弱いところを攻撃することである。

もし自分自身が太極拳の運動規則を乱すような悪い影響を受けていれば、自らは相手との状況を変える機会を得られない。(攻撃は出来ない)

自分が平衡を保ち相手が平衡を崩した時にのみ、自分が状況を変えられる。

だからこそ、自分自身が太極拳の運動規則に従って動くことが重要なのである。

 

太極拳の練習は水の流れに逆らって船を漕いでいるようであるとよく言われる。一所懸命に漕がなければ前に進まず流されてしまい、一定の場所に留まることもできない。たしかにこのことはある条件の下では正しい。

すなわち初級から中級程度の練習過程においてはこのことは正しいと言えるが、上級に到達したならばこのことはもはや正しいとは言えない。

自転車の練習の例に話を戻してみよう。一所懸命自転車に乗る練習をしていても、練習期間が十分でなければ、しばらくの間練習しないでいるとほとんど忘れてしまうので、また練習する時は一所懸命前進しなければならない、さもなくば倒れてしまう。

しかしながら、もし自転車の練習を長い期間十分に行い優れた乗り手に到達していたならば、長い間自転車に乗らない期間があっても簡単に乗りこなすことが出来る。ほんの少しだけ慣れれば元の状態にもどることが出来る。

すなわち、ひとたび運動規則が自身の身体に確立されたならば簡単に失われることはない。初級から中級程度では運動規則の確率はまだ脆弱であり簡単に失われる。しかし上級程度になればなるほど簡単に失うことはない。

 

従って、太極拳練習で最も重要なことは套路自身を熟知することではなく、套路練習により太極拳運動規則を身体に確立することである。

伝統太極拳の技が失われるかもしれないと心配する人がいる。各々の老師達が自分のもっと優れた技を自分だけのものとして誰にも教えないと、やがて全ての技が失われてしまうのではないかと。

しかしこれは大変悲観的な考えで根拠がない。

ある一つの特別な技が失われたり、さらに言えばある一つの套路全てが失われたとしても太極拳の失伝とはならない。太極拳運動規則を身体に確立する方法が失われない限り太極拳の技は失われない。

一方、器械も含む太極拳の全ての套路が伝えられたとしても、太極拳運動規則を身体に確立する方法が伝えられなければ太極拳の技は失伝する。

太極拳の発展・発達は波のようで、上がる時もあれば下がる時もある。

常に上がり続けたり、常に下がり続けたりすることは決してない。

もし国家が安定し、気候も良く、人々が練習する時間が十分にあれば太極拳は発展する。しかし国家が戦下にあったり、人々が食糧難にあっていたり、多くの人が太極拳練習の時間が持てなかったりすれば、太極拳の発展は妨げられる。

現在太極拳は坂を上っているが、頂上ではない、しかし上り続けているのは確かである。

二人が太極拳の技を競い一人が勝って一人が負けた時、負けた人の太極拳の練習方法が間違っていたのであれば負けたとは必ずしも言えない。

もし彼が大圏にあれば、まだ素早くて強い攻撃に耐えられない。

いかに優れていても誰でも自身の限界がある。

速く強い攻撃に耐える能力は自身の太極拳運動規則の確立とその達成度による。

しかしながらそこには必ず限界があり、いかに優れていても自身の限界を超えた攻撃には耐えられない。例えば勁がいかに優れていても自動車の力には勝てないし、いかに技が早くても発射された鉄砲の弾丸は掴めない。

太極拳練習は太極拳運動規則を身体に確立させて限界を拡大することである。

相手の攻撃が自分の限界内であれば相手を克服出来る。相手の技が自分の限界を超えるていると、自身の太極拳運動規則が乱れて相手に負けてしまう。

練習をすればするほど、もっと早くて強い攻撃に耐えられるようになるが誰でも自身の限界が必ず存在する。

太極拳の技を神秘化してはいけない理由はこの事による。

 

発勁

気の流れが筋肉の動きを導く。発勁は正にこの気の流れが筋肉を動かすことの一つの応用である。

掩手肱拳を例にとってみよう。拳への発勁は丹田から腰、背中、肩、腕そして拳に勁が導かれる。全ての勁が正しく拳に伝えられて発勁となる。

気が身体に正しく自由に流れて勁が伝えられ、最後に拳に発勁となる。

気が自由に流れるためには全身が放松していなければならない。

いかなるこわばりも気の流れを妨げる。

全身を放松するために、基本の站桩により身体をどのように調整するかを学ぶ必要がある。

ひとたび身体の放松を理解し会得すれば、すべての動作に進歩がみられ、丹田に気の中心が形成され、全身に気を流すことが出来るようになり(一気貫通)、

良い発勁が出来るようになる。

太極拳は放松から始まり柔らかくゆっくりした動作から発勁に至るので、多くの人が太極拳は神秘的なものと思っている。

しかし丹田の気の形成と、気の流れと筋肉・関節の基本的な関係を理解出来れば太極拳には何の神秘性も無い。これらを理解していないから神秘的と思うのである。ひとたび全てが明解となれば、あとは運動科学である。

例えば古代中国において諸葛孔明が発明した木牛流馬は、人々はそれがどのような原理、構造か全く知らなかったので大変神秘的なものと思った。

こんにちの自動車は木牛流馬よりはるかに複雑であるが、自動車の原理、構造を理解しているので誰も自動車が神秘的なものだとは思わない。

同様に人々は太極拳の理論を知らないので神秘的と思うのであり、ひとたび

理論が分かればそこに神秘はもはや存在しなくなる。

まず理論を理解して、それに従って練習を重ねることが太極拳の技を進歩させる。理論を判らぬまま、いたずらに練習を重ねても進歩はあまり得られない。

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