top of page

「太極拳観と、太極拳理論」

日本陳式太極拳道友会

 二級指導員 安部 明

この度、一級指導員の審査を受ける要件として、表題についての論文を記し。ご提出致します。ご拝読の程宜しくお願い申し上げます。

 

 太極拳観について、陳式太極拳には習得し守り伝える価値がある。そして私は太極拳が好きである。太極拳で学んだ事を日常に生かし、健康で悔いの無い人生を全うしたい。

太極拳理論について、自分が現時点での理解感得している内容、放鬆、丹田の感覚、勁についての説明と、站椿を行う時の感覚を出来るだけ自分の言葉や、太極拳基本要訣に照らして述べてみたい。合わせて、自分が指導を受け修正する中で見出した技術についても記させて頂きます。

 

陳式太極拳の価値とは、

元々は生活を守る為の武術として発達した陳式太極拳であり、その武術としての技撃性の高さが認められています。それもさることながら、現代の法治社会において最も価値あるのは、その学習者の資質を問わず、一定の健康増進、身体能力の向上、強化をもたらす事です。

一般に身体各部の不随意の滞り、凝り、そういった部分が不調の原因となり得ます。

それを解消する治療法としては、マッサージ、針灸、按摩などがありますが、

太極拳は学習者の能力に寄らず、自力により健康を高める効果を期待出来る所に大きな価値があります。ではなぜそれらが可能なのでしょう。

 

太極拳の学習の初期の段階から一貫して行われる事は、まず自身の体の意識化、動作の制御です。重力に対して、身体への負荷の最も少ない正しい姿勢への探求、からだを緩めてゆっくりとした動作を行います。纏絲勁や放鬆により、筋膜のしわや引きつれをほぐし、体液の滞りを解消し、循環によるデトックスを促進すると考えます。

 

又、脳内の学習回路形成には時間を要します。又身体各部筋肉への神経系伝達系の増加、洗練にはより多くの時間を要します。さらに上手く感じる事の出来ない不随意の部分を活性化し制御できるまでにはより膨大な時間努力を要する事は想像に難くないでしょう。

ゆっくりとした動作を繰返し練習する事で、それを成しえるのが、太極拳です。

でも何年練習していても、ちっとも変わらない、そう思っている方もいるでしょう。自分も又、そういった手ごたえの無い時期を経験して来た事も事実です。

 

ではどうすれば上達するのか、常に自身の体の声を聴き、動作の意識化を続ける事です。

外に意識が向いていて無意識に動いていては動作に変革をもたらす事は出来ないでしょう。

 

人が体を動かす時には、脳からの指令が、正しく身体各部に行き届く事で、意図した動作が正しく行われます。太極拳の練習において要求される動作の意識化、意識を用いて動作を行うことは、子供の成長プロセス。リハビリデーションによる身体機能回復のプロセスと似ている気がします。

太極拳の練習は途切れなくゆっくり動く事が基本です。これは身体動作の意識化と正しい制御を容易に習得にする為にも有効なのだと思います。

ゆっくりと動くことは動作のコマ数を増やす事であり、意識を濃くし細かい身体制御を可能とします。究極は、静止した状態であり、まさに後述する站椿が該当します。

 

では常にゆっくりとした運動だけでは、早く動く事は出来なくなるのか? 否です。

人間の身体感覚には、不思議な現象があります、ゆっくり習得した動作は、高速での反応、運用が可能となるといった事です。

これは太極拳とは異なる自分の経験からですが、二輪車に乗っていた頃、湾岸の埋め立て地で、ゆっくりと徐行して円を描く様にぐるぐる回り、タイヤを滑らせてカウンターをあてる練習をよくやりました、この技術を習得すると、100Km以上の速度でほぼ無意識に同じことが出来るようになります。100Kmで練習したら命が幾つあっても足りないです。

 

高速での運動は、運動強度が上がり身体への負荷を伴います。虚弱の者がいきなり行うには危険が伴います。運動によって、ケガをしたり、疲労により免疫低下で病気になっては元も子もないでしょう。

太極拳による健康増進には、必ずしも運動強度、負荷を大きくする必要はありません。

意識を持ったゆっくりした正しい動作が自然と体を養って行っいってくれるのを感じます。

 

自分が太極拳を好きな理由

体の使い方に対する理解を深め、無理なく身体能力の向上がはかれる事、

それ以上に、太極拳を学ぶ事の楽しさ、自分自身への気づき、心身への理解が深まる毎に楽しさが増してゆく奥深さが感じられることです。神妙な技術への憧憬もあります。

ただ単に套路動作を習得し、意味を理解して事が楽しいといった事もあります。

同じことの繰り返しの中で、何かのきっかけで判る出来るとなった発見の楽しさです。

 

日常生活へ生かす事

太極拳を学ぶ事で、注意深さ、観察力、などが身に付いてきた事を感じます。

いつもの同じ暮らしの中での新発見、学びや成長の機会を見つける事が出来る様になりました。物の見方、考え方の多角化、答えを見つける手段は一つではない。

といった考え方の効率化や、聴頸の技術は人との関り方や距離感にと活用しています。

続きまして太極拳論として、

勁の感覚、放鬆、丹田についての私なりの理解について述べさせて頂きます。

昔、小旺老師が来日した際、講習会参加者の質問に答える形で、勁の感覚をご説明頂いた事がありました。腕を前に伸ばし手のひらを突き出して、指を反らせる様に指先を引いた時の感覚か、勁の感覚に近いと仰せられていた事を覚えています。

自分のイメージとして例えると、昔流行った、可動式のGIジョー人形とか、繰り人形の如く、体の各パーツの中を何本かのワイヤーが通っていて、そのテンションの具合が勁の感覚といったものに近い気がします。実際には、腹腔内膜、深層筋膜や、表層筋膜、関節の靭帯、皮膚、といった人体の各所を繋ぎ止めている皮紐構造の総体のテンションバランスが、連動し良くコントロールされた物が勁と称されるように感じます。

筋肉の付き方は、各関節に対して並行でなく、斜めに取り付いており、捻りによる回転運動を可能にしています。

伸筋系による捻り回転運動が出勁、屈筋系による捻り回転が収勁です。

以前、及川会長が小指と親指から2本の紐を螺旋状に上手く腕に巻き付けて、それぞれの端を引っぱる事で纏絲勁を、ご説明頂いた事がありました。それぞれの紐が出勁と収勁を表現しており、大変、判り易く勉強になりました。

2本の紐を同時に強く引くと、腕が固く固定され、掤勁の状態も良く理解できました。

この時、2本の紐で、腕の力を使わなくても、腕の姿勢、形を維持する事が可能でした。

紐を緩めてゆきギリギリ腕の形姿勢を崩さないで保つことの出来る勁の状態、この時の腕の状態は放鬆しているととらえています。

斜めに走る筋肉の付き方、筋膜の構造は、腰椎、脊椎、頚椎の各関節においても同様です。

站椿における放鬆とは、全身の各部の筋膜、筋肉に偏った緊張を起こさない様に調整して、正しい姿勢を維持し続けられる状態と考えます。この状態での姿勢が尾閭中正と言われる外形に正しく合致している事が站椿の要求の一つとしてとらえています。

では先ほどの全身の筋膜のテンションの起点は? となるのが丹田でしょう。丹田の感覚は腹腔の取り巻く筋膜群と全身手足の筋膜とが繋がれバランスの取れたテンションの感覚と、腹腔内の内臓や体液の動き、その重さなどによる感覚も関わっていると考えます。

丹田が変化する事で全身の筋膜に変化が起こります。

 

次に站椿を行う際、自分が体幹を調整する際に行っている身体感覚をご説明します。

まずは全身を調整して、放鬆する事で重力の感覚を基準として、垂直の感知と体全体のバランスを取る様にしています。具体的には、虚領頂勁として頭頂から引き吊るされる感覚でうなじを伸ばします。、軽く顎を引き、後の音を聞く様に背面に注意を向けます。頭頂を吊るされたまま、肩、肘は重力で外に垂れ下がり、鎖骨と肩甲骨は腕にぶら下がられて、肩幅が広くなる感じです、肩沈肘垂。

次に、胸骨全体を前方へ落とす様にして重力で下に引かれるようにします。上手く出来ると背中が緩み、胸が軽く感じられます、含胸抜背。

更に胸郭と骨盤腸骨が上下に引き合う様に腰を緩め膝と股関節を緩めてゆきます。(鬆腰円襠)。上手く出来ると鳩尾が凹むようになって背中が緩み丹田に充実感が出ます。丹田で呼吸する感覚を意識して丹田を緩める様にしていると、両脇から丹田に何か集まってくる感じになります。あとは八方向の安定に気を付けて、丹田と呼吸を意識して体が軽く感じられるように続けます。体にこわばりが上手く取れない時には、芋虫の動きでアコーデオンの様に体感を上下に引っぱり緩める事を意識します。

站椿を終える時の丹田に手を合わせて回す感覚は、丹田を中心とした腹部に大きな眼球の様な球体が埋め込まれていて、丹田の正面を瞳の部分に見立てて、両手の掌心にある労宮穴を合わせて、両手でお腹の眼球を回す感覚です。両腕を降して沈むときには、上体は頭頂を吊られたままの感覚で、丹田が重力に引かれて下半身だけが沈む感じです。

重力で、内臓、体液は下に降り、体は緩み丹田は気が満る(気膨満)となり。頭は明晰となり気持ちは晴れやかになる、私が上手く站椿できた時の状態です。以前、気功の本で読んだ事ですが、重い気は下がり、軽い気は上がるとの記述はこの事かと感じています。

 

指を伸ばす事、手指の勁について、

指を伸ばすと腕まで緊張して固くなってしまう。力を抜くと指が曲がってしまう。

この問題の解決には、指尖球という部位の意識が有効でした、四指の付け根の部分ですが、この部分を指を開く要領で開くよう意識する。指は開かない。判り易くは、片方の手でもう片方の小指側と親指側の付け根を挟み、ゴリゴリと潰してみる。それに逆らい開く様にする事で手指にだけ勁が入り、自然と指が伸びる、腕の固くなることもない。対禽拿に対しても有効な技術であると思います。

 

掩手肱拳等の発勁時の手首、末端のブレについて、

この現象が発生すると、勁力は対象に浸透する事が出来ないばかりか、自身の手首を痛めてしまう危険があります。当初は末端を緩める事のみを意識し、鞭のように打っていた為、末端のしなりが発生し易く制御が難しかったです。手首と腕をはじめから一つのブロックとして意識し、手首の勁を緩めることなく撃つことで改善されました。

最近では、さらに腕全体と右半身を一体のブロックとして意識する事で、腰の鋭い水平回転だけで楽に発勁出来る事も判ってきました。丹田の爆発的な使い方に拠らない省エネ発勁として研究中です。動作が楽である事、これも正しい練習の重要な要素かと考えます。

 

動作中の姿勢で気を付けている事、

動作中に自分の体を見ない様にする事です。頭の位置が正しいければ、体を傾ける動作以外では自分の体や足元は見えないはずですから。この当たり前の事に気が付くのに随分と時間がかかってしまいました。内観せずに外側から自分を判断しようしているとなかなか気が付けない事の様です。

 

太極拳を上達する為には、心身への理解と練習の継続が不可欠と考えます。そして常に、出来る様になった時が、真に理解したと言えるのでしょう。

 

全身の勁が滞りなく繋り(一気通貫)そのテンションを自在に変化出来る事(剛柔相済)、

剛となせば大きな動作に拠らない瞬時の力の伝達が可能となり、短勁、寸勁、

柔軟にすれば、力の吸収や、波の様に力を伝達する事、化勁、弾勁が可能となる。

緩みと貼りを瞬時に自在に切り替え(快慢)られる様になる事で、相手をすかしたり、たたらを踏ませる事が出来る(引勁落空)。こういった境地を目指し、

太極拳の武術技術として功夫五層、五陰五陽の理想に近づいて行きたいと思います。

 

私が及川会長に師事する様になり、陳式太極拳と出会ってから早30年以上が過ぎました。

この間、太極拳の技術のみならず、自他への敬意と心の成長を、学んだ事を感じます。

精神と体とが不可分である事への理解や、人の姿勢は生きる姿勢であり、精神の発露であるといった事。

年齢を重ねて行く事で、若い時に比べて色々と衰えを感じる事も増えてはゆきますが、

太極拳を練習していく中で、自分には、未だに知りえない多くの可能性がある事を感じます。

太極拳への情熱は今も変わる事はありません。これからも更に探求を重ね上達を目指して行きたいと思います。

また学んできた技術を正しく伝える事は大切な使命であるとも感じております。

これからも及川会長への一助となれますよう、さらなる精進を続けて行く所存です。

今後ともよろしくお願い申し上げます。

bottom of page